初めて その新緑の瞳を見た時 私の咳は止まった。

「大丈夫 お嬢さん」
心配そうにその新緑の瞳はマドレーヌを見ていた。
「あっ大丈夫ですから・・・」
マドレーヌは身を固くして 立ち上がった。
「そうかい ならいいが・・・」
男は立ち去りかけた。

ゴホッゴホッ
背後でまた 咳き込む音がした。男はためらったが 踵を返して戻った。
「キャッ」
「何もしないよ ほら これなら何もできないだろ」
男はなんと 軽々とマドレーヌを抱き上げ その広い肩にひょいと乗せてしまった。
「何もしないよ ただ家まで送るだけだから」
きまり悪そうにそう言うと 落ちていた籠を拾い上げた。
「家はどこ」
マドレーヌは黙って前を指さした。男も黙って歩き出した。

"埃と汗とおひさまの匂いがする"

こんなひと気の無い森の中で 知らない男の人に出会って本当なら不安でいっぱいのはずなのに 
彼の肩はとても暖かく 落ちない様に思わずしがみ付いた頭からは生きた香がした。
ふと目を上げてみると見慣れたはずの森が まるで初めてきた場所のように感じられた。

"わぁ!こんなに高い"

目線がいつもより数段高い 
見上げていた枝が髪が引っかかるんじゃないかしらと心配になるくらい近い。
木々の新緑の青々とした輝きがいっそう美しい 
足元を見ると怖くなるくらいに地面が遠くて 思わず彼の頭をギュッと掴んでしまった。
それでも彼はよろけることなく クスッと笑っただけだった。

別れ道にくると
「どっち」
彼は言葉少なに訊ねた。
「あっちよ!」
マドレーヌは子供みたいにはしゃいで"うそ"をついた。いやうそというのは適当ではない。
いつもの帰り道よりだいぶ遠回りな道を教えたのだ。

"ずっと こうしたいたい。"

マドレーヌは彼の柔らかいくせ毛に指を絡ませながら思った。
何もかもが暖かい人だった 歩調は乱れる事なく心地良い揺れを感じさせた。
力強く大きな腕はマドレーヌに安心感を与えた。 確かな生命力を感じさせる人だった。
やがて 森は終わり眼前に広々とした草原が広がった。

「わぁ」
マドレーヌは声を上げた。いつもと同じ場所なのに今日は遠くベルサイユ宮までも見える。
けれどそれはマドレーヌの子供っぽい悪巧みの終わりでもあった。
「あそこのお屋敷なの」
マドレーヌはついに最後の道案内をした。
「そうか」
男は黙々と歩いて行く。風が心地良く吹いて 鳥が楽しげにさえずっているのに 
さっきまであんなに 楽しかったのに 今は胸が締め付けられる思いだった。
いつのまにかマドレーヌは彼の頭を胸に抱いていた。
そのことに彼女は気づいていない。彼が頭に感じる柔らかい感触にとまどっていることにも。

屋敷の門までくると 黙ってマドレーヌを下ろした。そしてぬっと籠を差し出した。
「ありがとう・・・」
マドレーヌはそう言って受け取った。男は
「それじゃ」
短く言って元来た道を戻っていった。

「誰だい ありゃ」
じっと大きな背中を見送っているマドレーヌに門番が声をかけた。
その時初めて彼の名を聞いてないことに気付いた。

「マドレーヌ!」
頭上から声がした。
「また 森に行っていたのか ダメじゃないか!」
「レニエさま」
マドレーヌは馬を降りてきた 貴公子に応えた。
「言っただろう もう一人で森に行ってはいけないと。もし発作でも起きたらどうする。
それでなくとも 森には蛇や獣もいる。まして若い娘があぶないじゃないか」
「申し訳ありません でもほら こんなに取れましたわ」
マドレーヌは野いちごでいっぱいの籠を見せた。
「本当だね けれどもうわたしを心配させないでおくれ」
レニエはマドレーヌの肩に手を乗せて 
「そんなに 気を使うな ばあやが何と言おうとお前の事は 兄弟のように思っているのだから」
「もったいない事でございます。」
マドレーヌは優雅にお辞儀をした。
「そうだ マドレーヌ お茶を入れておくれ お前の好きなお菓子を買ってきたんだ。一緒に食べよう。」
「まあ そんな」
「遠乗りの ついでだから」
そういうとマドレーヌの背中を押してレニエは屋敷の中に入った。
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