ジャンヌを仕留めたというのに 凱旋の行軍は覇気がなかった。
やはり 犯人の死亡というのは 手放しに喜べるものではない。
長い道のりを来た時とは違って 疲れた体を馬に任せて進むだけ。
おおきなトラブルもなく 宿がスムーズに取れていたのがせめてもの救いであった。

「疲れているんだろう。ほら いいもの持ってきたぞ」
その日の夕食の後、どこかに姿を消していたアンドレが ひょっこりショコラを持って現れた。
「おまえ どこに行っていたんだ。それにショコラなど どうやって手に入れた?」
ショコラが簡単にこんな片田舎で手に入るとは思えない。
「なあに ちょっと訊いてみたらこの町に美食家がいてね。少し分けてもらってきたんだ。
もちろん、お屋敷でおまえがいつも飲んでいるものとは違うけどな」
「ありがとう これで十分だ」
オスカルはそれを受け取り口づけた。
たしかに極上とまではいかなくとも ショコラはショコラだ。
アンドレが丁寧に入れてくれたのだろう。心に染み入るような味だ。

温かいカップを両手で包むと 手のひらから熱が伝わる。
窓の外はどんより重い雲が今にも圧し掛かってきそうに垂れている。
けれど カップから伝わる熱がその重圧から解放してくれる。

「雪になる前に ベルサイユに帰れればいいが…」
アンドレが言いながら カーテンを閉めて暖炉の薪を足す。
「じゃあな 隣にいるから 何かあったら呼べよ。おやすみ」
アンドレは額にキスを落として部屋を出て行った。

いつもと変わらないはずだった。

いつもと同じおやすみのキス。

子供の頃から 何百 何千と繰り返されてきた習慣。

それなのに

アンドレにキスをされた 額がほんのりうずく。

空のカップをそっと枕元に置いて オスカルは横になった。
目を閉じなければいけないのに怖い。

また ジャンヌの声が聞こえそうで 
暗いなにかが 自分を深い穴の底から呼んでいるようで
目を閉じるとそこに引きずり込まれて

なにか大切なものを 引き離されて 永遠に失って
くやんでも 泣き叫んでも 二度と這い上がれないそんな気がするのだ。

怖くて枕もとのランプの灯りだけは付けたまま置いてある。
部屋の灯りが消せないなんて 子どもみたいだ。

そのランプの光の中だけが部屋の中で浮かび上がって 安全な場所に思える。
木製の大き目なカップ 金の縁取りも可憐な絵柄もなく コロンと丸いだけのただのカップが 
オレンジ色にゆらぐ灯りの中では何より温かく見えた。

「アンドレ…」

オスカルはその名をつぶやくと 裸足のまま ドアを開けた。
すぐに 椅子にもたれていたアンドレが立ち上がり
声をかけようとするのを制して 部屋に引っ張り込んだ。

アンドレ…

その広い胸に顔を埋めると 涙が溢れて止まらなかった。
抱きしめてくれる腕の確かさが オスカルを現実に引き戻してくれる。

落ちかけた深淵から 彼女を引き戻してくれる。

"大丈夫。アンドレは生きている"

ずっと

ずっと、こうしていたい…

何も考えず、この温かなぬくもりの中に守られていたい。

自分が非力な存在なのだと 

たくましい男の腕にすがりつきたくてたまらないくらい

弱い人間なのだと

そう告白してしまいたい。

けれど、使用人を守るのは 自分の役目。
主人たるジャルジェ家嫡子の役目。

何も言うことが出来ず、ただ ただ、涙だけが溢れてしまう。

"わたしの弱さがアンドレを危険にさらした"

彼にあの時、もしものことがあったら
このぬくもりを永遠に失うことがあったら
ぎゅっとアンドレの胸のクラバットを握り閉める。

"甘えていられる 立場ではないな"

オスカルは気を強く持ち直し、アンドレの胸から顔を上げる。

「これ 借りてもいいか。すまなかったな。戻ってくれ」
アンドレのクラバットを握り閉め 返事も待たずにべッドに潜り込んだ。

「どうかしたのか?」
アンドレの問いかけに
「戻っていいぞ」
と小さく返事をした。

手の中のクラバッドには、彼のぬくもりと香りが残っている。
「アンドレ お前はあたたかいな…」
呟いてみる。

けれど、心の奥底では叫んでいた。

"行かないで!ずっとずっと そばにいて!"

溢れる涙と嗚咽をオスカルはアンドレの残り香の中に沈めた。

オスカルは残りの行軍の間、アンドレのクラバットをずっと胸元に潜ませていた。
不安になったり、苦しくなるとそっとそこに手を当てる。
するとアンドレのぬくもりが甦りオスカルに力をくれた。
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