その王の静けさとは対照的に 宮殿の住民たちは大騒ぎをしていた。
デマが飛び交い 恐怖に支配され 宮殿から我先にと逃げ出した。 

ルイはその混乱の中、淡々と歩みを進めた。幾人かの人達は彼を認め礼を示したが 
多くの者達は大荷物を抱え走り回り ルイに気づくことはなかった。

ルイが開けた目的の部屋の扉の中でも衣類や家財道具が散乱し、
逃亡のための荷造りが進んでいた。

「兄上!」
ルイを見るとアルトワ伯は嬉しそうな声を上げた。
「ようやく 決心なされたのですね。ご安心を。兄上の分もちゃんと用意させています。」
「ありがとう シャルル(アルトワ伯のこと)だが、これではおそらく逃げきれないだろう。
荷物を減らしなさい。」
「何をおっしゃいます?これでも最小限にまとめさせているのですよ。
兄上に不自由な思いはさせられませんから。」
「わたしは行かない。」
「また そんなことを!いい加減にしてください!子供じゃないんですから…」
プンプン怒り出した弟をルイは心から愛おしく感じた。
この弟は軽薄で享楽的ではあったが 自分を心配してくれて、
彼なりに精一杯の事をしてくれているのだ。

ルイは静かに2つ折りになった紙を差し出した。
それには細かな文字でびっしり沢山の名前が記されていた。
その表題は「改革のために 打ち落とさなければならない 286人の首」

アルトワ伯はそれを見るなり破き捨てようとしたが 
意外な俊敏さでルイがそれを取り返した。
「これは まだ使うあてがあるのだ。破かないでほしい。」
「そんなもの!兄上が持つ必要ありません!」
「シャルル。このリストの2番目は君なのだ。これがどういう意味なのかわかるだろう。」
アルトワ伯は目を斜め下に泳がせた。
「君には子供達もいる。一刻も早くフランスから出るのだ。」
「では!兄上もご一緒に。でなければ行くことはできません。」
「わたしは王なのだ。そして国民はわたしの子供なのだ。置いて逃げることはできない。」
「はん!何が子供ですか!だとすれば親殺しをたくらむ重罪人ですな。」

そう言いながらアルトワ伯の瞳からは 涙が溢れていた。
彼は理解したのだ。

兄は逃げる気はないのだと。

どんなに言葉を尽くしても 

どんなに懇願しようとも

決して 兄は逃げはしないのだ。

ルイはその温かな胸にアルトワ伯を抱き寄せた。

「シャルル 荷物を減らしなさい。
そして 出来るだけ身軽にして 質素な馬車で 今日中にここを出るんだ。」

「いやだ!いやだ!いやだ! 兄上が一緒じゃなきゃいやだ!」
「シャルル?」
わんわん子供みたいに 彼はルイにしがみ付いて泣いた。
ルイはその背を大きな手で撫でてやった。
「シャルル。大丈夫。また会えるさ。心配はいらない。」
まだ ヒクヒク泣いている弟の顔をルイはハンカチで拭いてやった。

不安なのだろう。彼には今までの生活を捨てて外国で暮らすなど 想像もつかないことなのだ。
ルイはそんな状況に弟を追い込んでしまった自分の無力さを呪った。
「いいね。今日中に出るんだよ。」
兄のくれたハンカチで鼻をかみながら 彼はコクン…と頷いた。

それでも 彼がベルサイユを旅立ったのは、翌日の夜明け間近であった。
妻と子を先に行かせ 自分は荷物を積んだ馬車の傍で 兄の気の変わるのを待った。

「アルトワ伯。もう出立しませんと。明るくなる前にベルサイユから遠く離れなければいけません。」
不安がる弟の為に ルイが付けた騎兵隊の隊長がそう進言した。夏の夜明けは早い。
アルトワ伯は馬車に乗り込む前に 王の寝室の方を向いて跪き神に祈った。

「神よ。兄上をお守りください。」

そして 胸に手を当てた。其処にはルイのハンカチが入っていた。
彼はシャンティで妻子と再会し、無事イギリスに落ち延びることができた。
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