ルイはアルトワ伯の部屋を訪れた後、今度はポリニャック伯夫人の居室に向かった。
彼女は「改革のために 打ち落とさなければならない 286人の首」に
アルトワ伯の次に名前が書かれていた。

ルイが部屋に近づくと はっとしたように一人の従僕が駆け付け 
彼の来訪を部屋の主に分かるように大声で告げた。
「王様のお越しでございます!」
そのあまりの声量と不慣れな様子から いつもこの役目を担っていた召使が逃げたのか、
あるいはべつの用事を言いつかっているのかいずれかだろうとルイは思った。
昨日から貴族だけでなく 衛兵も召使たちも次々逃げ出しているのだ。
ここに来る間、何人もの貴族がけたたましく呼び鈴を鳴らしているのをみた。
一人では何もできない彼らが怒りをあらわに従僕達の名を呼んでいた。

部屋に入ると お辞儀をする大勢の人々の中に 王妃マリー・アントワネットが立っていた。
「王妃 ここにいたのか ちょうど良かった。」
ルイはそう言うと 彼女を見つめた。
その瞳は正しく愛する人を見る男性のあたたかなまなざしであったのだが 
誰もそれに気づく余裕はなかった。

ルイはポリニャック夫人に近づくと旅券を手渡そうとした。
それを見た夫人は手が震えてしまった。
代わりに夫のポリニャック伯爵が進み出てそれを恭しく受け取った。

ポリニャック夫人は顔面蒼白であった。王自らが旅券を持ってきた意味が分かったからだ。
何も気づいていないポリニャック伯爵は首を傾げた。
「うん? 枚数が多いような…」
「ポリニャック伯。頼みがあるのだ。
王妃とルイ・シャルル マリー・テレーズを連れて行ってはくれまいか?」

この申し出に居合わせた人々は 皆困惑の表情を浮かべた。

冗談ではない! ただでさえ 危険なこの時 王妃を伴うなど 
爆弾を抱えて火の中に飛び込むようなものだ!

だが、その気鬱は一瞬のものであった。
アントワネットがこの王の言葉に間髪入れず 反論したからだ。
「何ということを!あなた…」
そしてつかつかルイの近寄るとその手を両手でしっかり掴み頬ずりした。
「あなたがご一緒なさると言うのであれば どこへでもまいりましょう。けれど」
彼女はルイの目を見上げ、
「けれど あなたがここに残ると言うのであれば わたくしも残ります。
わたくしはあなたの王妃なのですよ。」
瞳から 涙を溢れさせ 彼女はそう言いきった。

すかさずポリニャック夫人が王妃にハンカチを差し出した。
「おお 何という気高いお心なのでしょう!」
感極まった様子でアントワネットを抱きしめた。その口の端は僅かにあがっていたのだが。

それを素早く認めたルイはそれ以上強く出ることはしなかった。
ただ 居並ぶ者達に 今までの友好に感謝の言葉を述べ 旅の無事を祈り祝福を授けた。

その後もルイは幾人かの人々に亡命を勧めて歩いた。
多くの者が宮殿を見捨てていくことにどこか気まずいものを感じていたのだが 
王自らが勧めた、つまり"王命に従う"という大義名分が出来たため 急ぎ出立した。
もっとも ルイが出向いた時には すでに亡命していた者も少なくはなかったのだが。

あれほど人々でひしめいていた宮殿は 17日の夜明け前にはガランとしてしまった。
ろうそく係の多くが逃げ出したため 灯りはほとんどともることは無く 
ルイは手にした燭台だけを頼りに闇の中を進んだ。
ルイ自身の召使もほとんどいなかった。

ルイは一番信頼していた近侍のティエリーに密かに宝石類などを持たせ 
少し前にコンピエーニュに避難させていた。
いずれこの日が来ることをルイは予感していたからだ。
王妃が単独で逃げてくれないことは十分予想が出来る。
だから自分にもしもの時はコンピエーニュに 王妃が逃れることが出来るよう準備していたのだ。

あちこちの部屋の扉には南京錠がかかっていた。ルイは苦笑した。
いずれ再びここに戻れるとでも思っているのか、もしくは運び出せなかった品々を
後で危険を承知で召使達に取りに来させるつもりなのか。

ルイは宮殿の見回りを続けた。これでいい。
宮殿に巣くっていた数々の魔物はあっという間に逃げ去った。

"あれほど わたしとカロンヌが頑張って 何とも出来なかったのに…"

それを瞬く間に追い払ってしまった。

一人の准将が。

バスティーユは堅固な要塞である。
所詮いくら民衆が銃を手に入れたところでどうにかなるものではないのだ。
やはり 大砲の力が大きい。そして大砲はおいそれと素人が扱えるものではない。
フランス衛兵隊がいなければ それはただの鉄の塊に過ぎないどころか 
扱いを間違えれば火薬があらぬ方向に爆発し むしろ味方が死に至る。

"オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ"

ルイはその顔と傍らに立つアンドレの顔を思い出していた。
彼女は常に王家を守り続けてくれた。

世間では彼女は謀反人である。しかし ルイにとってはそうではなかった。
武力で 政治をまげること。それは今まで当然のように行われてきた。
しかし、自分は違う。断じて違う。そう思ってきた。
けれど 結局 軍隊の力で国民を黙らせる命令を
自分の名で命じることを余儀なくされてしまった。

かつて、国民の代表に銃を向けるという暴挙を 命を張って止めてくれたのも彼女だった。
その一報を聞いて 自分はどれだけ安堵したことだろう。周りに逆らえず出してしまった命令。
もし、一人でも議員を殺めることになっていたら、自分は一生苦しむことになったに違いない。

そして、今また 彼女が蜂起したことで 宮廷が揺らぎ 自分は軍を撤退させることができた。
自分の名で民衆を虐殺するという惨事を免れることができたのだ。

ありがとう。オスカル。

彼女の生死は知れない。
一部の者が全身蜂の巣のように撃たれ 兵士に担がれて行く姿を見たそうだが 
もしかしたら、亡くなったのかもしれない。あれほど目立つ容姿である。
生きていれば必ずひとの口に上らぬわけがない。

せめて ジャルジェ家の立場だけでも回復してやらなければと思う。
が、今日はパリに行く。生きて帰れる可能性は低いだろう。

もし ことが上手く運んだあかつきには ジャルジェ将軍に会いに行こうとルイは決めていた。

ふと 外に僅かな灯りが見えた。反射的に身を隠して様子を伺うと 
そのわずかな灯りにアルトワ伯の顔が見えた。

”まだ 発っていなかったのか!昨日のうちに出発しろと命じたのに!”

叱りつけるつもりで飛び出そうとしたルイの耳に微かに弟の声が聞こえた。
「神よ。兄上をお守りください。」
そう言うとアルトワ伯は項垂れて馬車に乗り込んだ。
それをルイは密かに見送った。
「どうか無事で シャルル。ふがいない兄を許しておくれ。」
目を伏せ 先ほど弟がしていたように彼も跪き 神に祈った 。
「神よ 彼を守りたまえ。」

もうすぐ 夜が明けるだろう。今日が最後の日になるかもしれない。

それでも いかなければならない。自分が王である以上

自分が王であるために。

そして、生きて帰れれば それはきっと 輝ける明日につながるだろう。
ルイは立ち上がった。
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