先生の笑い声が遠くなると アンドレは体を起こしてオスカルのベッドを覗き込んだ。
オスカルもアンドレが見えるよう体を下にずらした。

二人の目が合う。

見つめ合える。

正確にはアンドレにはまだオスカルの輪郭しか見えない。
それでも 彼は見つめ合っているのだと確信できていた。

誰もいなければ もっと近くによって顔が見たい。
愛を囁いて 抱きしめたい。

けれど部屋にはアランも 侍女達も リオネルもいるのだ。
ここでは二人は主従でしかないのだ。

それでも 目が見えていることは大きな喜びであった。永遠の闇からの解放。
しばらくして リ先生の言葉通り また闇は戻って来てしまった。
けれど 心に灯った希望の光は消えることはなかった。

午後からは いつもの医師もやってきた。
「リ先生が到着されたのですか。」
医師はとても嬉しそうだった。てっきり気を悪くするのではないかと心配していたのだが。
「あの方は 素晴らしい医師です。他の医者が匙を投げた患者を何人も治してきている。
特に結核にはお詳しい。あなたの為にラ・ファイエット候は彼を呼ばれたのでしょう。」
「そうでしたか。」
「もう わたしの薬は飲むのを止めてください。
これからわたしが行うのは傷の消毒くらいですね。ところでリ先生はどちらに?」
「それが 今日着いたばかりだというのに市庁舎に行かれました。」
「おお 先生らしい。わたしも帰りに寄ってみましょう。」
子どものように喜んでいる。それほどリ先生とは魅力的なのだろう。

そのリ先生の処方してくれた薬はとにかく苦かった。
そして、3日を過ぎたあたりから、オスカルはめまいがするようになり 熱を出し始めた。
アランはひどい下痢になりトイレにこもってしまった。アンドレも酷い汗と発熱を起こしていた。

そこにリ先生がニコニコ現れた。
アランは腹を抱えながらもなんとか文句を言ってやろうとトイレから出てきた。
「おい、このやぶ!何を飲ませやがった!」

「フム…」 リ先生はアランの様子を見ると 満足そうに微笑んだ。
「効いているようじゃな。大丈夫。すぐに収まる。」
「何言って…」
アランはもう少し文句を言ってやりたかったが 腹が限界だった。慌ててトイレに戻って行った。
「これはどういうことです?」
苦しい息でオスカルは訊いた。
アランと違い アンドレの目を治してくれるかもしれないこの医師に
オスカルは怒りをぶつける気がしなかった。

「なあに 薬が効いている証拠じゃよ。体の悪いものが出とるんじゃ。数日すれば収まる。」
リ先生はオスカルの汗を拭きながら、
「じゃが苦しいじゃろうな。
本当ならもう少し回復してから 薬を処方した方が楽だったかもしれんが
おまえさんもこの間、じっとしとれん性質だと言うとったからの。
多少強引でも早く治してやろうと思ったのじゃ。
どうせ苦しむのなら3人まとめての方が良いじゃろうと 
男どもにも飲ませてやったわ。二人とも元は丈夫そうじゃったしな。」

はっはっはっと笑った。
オスカルも笑おうと思ったが 苦しくてできなかった。
「リ先生はよく笑われますね。清国の方は皆そのようににこやかなのですか?」
「はっはっはっ清国のことは知らんよ。わしは日本人でな。」
「えっ そうなのですか。お名前から清国人かと思っておりました。」
「西洋では東洋人といえば清国人じゃからの。
『ハリ』も本場清国人に打ってもらっとると思う方が効きそうじゃと感じるようじゃしな。
まぁ、おまえさんはそんな偏見はないじゃろうが。
わしは日本に来ていた清国人に『ハリ』を習ったのじゃが 彼はあまり笑っとらんかったな。」
はっはっはっとまた笑い 
「日本人はよく笑うぞ。苦しい時も哀しい時もな。可笑しくなくとも笑うのじゃ。」
「可笑しくなくても?」
「ためしに 無理に笑顔を作ってみろ。」
「はっ はっ… いったぁ」
「声は出さんでいい。顔だけニッと笑って見るんじゃ。」
オスカルは引きつった笑いを浮かべた。
「はっはっはっ まだまだ無理そうじゃの。
だが どんな時も笑いを忘れなければ道は開けるものだ。
嘆いてばかりでは何も生まれはしないが 
気持ちをまず明るくすれば その光で道が照らされ歩き出せるものなのじゃよ。」
それから、オスカルの痛みを紛らわせるかのように、リ先生は祖国の話をした。

「日本の刀を武士は年中磨いとる。なぜじゃか分かるか?」
「さぁ… 切れ味を良くするためですか?」
「それも あるが 消すためじゃよ。」
「消す?」
「刀が消えるんじゃ。刀身が周りの景色を吸い込んで一体化してしまうのじゃ。」
「そんなことが…」
「あるんじゃよ。」
また、リ先生はこんな話もした。

「おまえさん 酒が好きそうじゃが わしはな。日本酒こそ世界最高の酒だと思っておる。
何故なら この酒はどんな料理も引き立ててくれるのじゃ。原料が米と水じゃからな。」
「穀物で作る酒ならヨーロッパにもビールがありますが。」
「いやいや あんなものではない。日本の酒はな。繊細で味わい深いものなんじゃ。
日本刀のように切れ味がよく力がある。
いちどおまえさんにも味わってもらいたいものじゃ。」

"行ってみたい。リ先生の祖国へ"

オスカルはリ先生の話にいつしか痛みを忘れ夢中になっていた。

薬の苦しみは本当に数日で嘘のように消えた。
アランは腕の痛みが無くなり 三角巾の吊りをしなくて良くなった。
ただ、先生からまだ剣の稽古はしてはいけないと念を押されていたが。
オスカルも起き上がれるようになり 咳も出なくなった。

そして 一番、リ先生の偉大さを感じていたのはアンドレである。
数日置きに針を打たれる度に目に映る景色は鮮明になり、その持続時間は増していった。
そして、1ヶ月を過ぎる頃にはもう3人は通常と変わりなく過ごせるようになっていた。

だがリ先生からは
「薬で症状を抑えているだけじゃから まだ薬も針も止めてはいかんよ。」
そう言われていたので 3人は先生の治療を素直に受け続けた。
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