引っ越しの日 馬車に乗りこむアントワネットは
もう一度ベルサイユ宮殿を振り返った。
こうして改めて見ればあちこち痛み 
かつての栄華がもう失せていることに気づき驚いた。

"それでも テュイルリー宮よりはマシかもしれない"

もう何年も 打ち捨てられていた宮殿は荒れ果て 
浮浪者が住みついていると聞いている。
「アントワネットさま」
「フェルゼン」
「馬車にお乗りください。どこへ行かれようとこのフェルゼンがお供いたします。」
その力強い言葉にたされ アントワネットは馬車に乗り込んだ。

ラ・ファイエット将軍率いる国民衛兵隊と僅かばかり残った近衛兵を
ジャルジェ将軍が指揮して馬車の護衛に当たった。
アントワネットの馬車には マリー・ルイーズ王女とルイ・シャルル殿下 
王の妹エリザベス内親王が乗っていた。

「お姉さま 大丈夫でございますよ。先日のパリご訪問の際にも
兄はパリ市民に大変な歓迎を受けたそうではありませんか。」
義妹にそう励まされてもアントワネットの心は晴れない。
三部会の時も王は歓声を浴びたが
自分にはひとつの声も上がりはしなかったのだ。

静かに行列は進んでいく。
途中前を行く王と王太子の乗った馬車から王が顔を出し フェルゼンを手招きした。
フェルゼンは馬を早めて前に進んだ。
「フェルゼン伯、王妃はどうだね。だいぶ気落ちしているのではないだろうか?」
「はい。残念ですがそのようにお見受けいたします。」
「これを王妃に。」
「承りました。」

フェルゼンは馬を止め、後ろの馬車を待った。
王妃が不安そうに尋ねる。
「陛下は何を?」
「これをお渡しするようにと。」

渡されたのは可愛い組木細工であった。
「お母さま ぼくこれ知ってる!」
シャルルは小さな手を伸ばして母親から箱を受け取ると あれこれ調べ出した。
「この箱はね。ちゃんとした順番で崩していくと開けることが出来るんだよ。
前にお父さまが教えてくれたの!」
一生懸命 あちこちを押したり引いたりしていたら、やがて 一面がスライドして少しずれた。
箱の向きをあれこれ変えてあちらこちらをずらしていく。
「やった!開いた!」
たっぷり20分以上かけてシャルルはついに箱を開けた。

「わぁ綺麗。」
中には色とりどりの飴が入っていた。
子供達はそれを摘まむと光にかざして眺め 口に含んだ。
「美味しい。」
「お母さまも 叔母さまも召し上がって。」
マリー・テレーズが勧めるのをアントワネットは素直に受け口に含んだ。

柔かな甘味が口に広がる。
「ねぇ 美味しいでしょ。」
膝にとりついて顔を覗き込むシャルルにアントワネットも笑顔で答えた。
「ええ、とっても。」

その様子を隣で微笑ましく見ていたフェルゼンは再び馬を進め、王の馬車の横に着いた。
「箱は無事に開きましてございます陛下。皆さま美味しく召し上がられております。」
「そうか それは良かった。君もどうかね。」
ルイはひょいと手を伸ばした。
フェルゼンは一瞬戸惑ったが手を伸ばしてそれを受け取った。
「あなたには特別なものだ。」
口に含むと ブランデーのまろやかな味が飴の薄い膜を破って溶けだしてきた。

パリ市民の歓迎は大変なものだった。
人々は沿道を埋め尽くし家々の窓からは花が巻かれ 三色旗が翻った。
「国王万歳!フランス万歳!」の声が絶え間なくあがった。

その歓声の中 マリー・アントワネットは氷ついた顔でカーテンを閉め、過ごしていた。
けれど、幼いルイ・シャルルは外の歓声が気になりソワソワしていた。

やがて馬車が止まり 扉が開かれると 待ちかねたように外に飛び出した。
すると ヤジが飛んだ。
「おやおや、フェルゼンの子が顔を出したよ。」
「ほんとだ。王にぜんぜん似てやしない。」

この声にアントワネットはカッとなって飛び出そうとしたが 
それより早くラ・ファイエット候が動いた。
「今、暴言をはいた者。前に出たまえ。」
先ほどまであれほど騒いでいた市民が静まり返った。

「いいか、今後王室に対して 不敬な言動をする者は 軍が取り締まる。そのつもりでいたまえ。」
ラ・ファイエット候は馬を下りると ルイ・シャルルの手を取り 宮殿内へと向かった。
その後ろ姿をフェルゼンは苦しげに見送るしかなかった。

車内にはまだ女性三人が残っていた。
アントワネットには車外に出る勇気が持てなかった。
エリザベス内親王が見かねて 自分が先に降りようと決心した時、
ドアのところに温和な顔がひょっこり覗いた。

「我が妃よ。さあ」
ルイは 肉厚で温かそうな手を差し伸べた。
その手をアントワネットは掴み車外に出た。
外の日差しは思いの外 暖かで明るかった。
昼の一番太陽の高い頃である。
市民は何も言わず 王と王妃が宮殿に入るのを見守った。

王の馬車からは ジャルジェ将軍が
ルイ・ジョゼフを抱いて車いすに座らせていた。
「殿下 よく辛抱なさいましたな。」
「いいえ、ちっとも辛くありませんでした。
お父さまは始終面白いお話をして下さりながら ぼくの体をさすってくれましたから。」
「さようでございましたか。」
老将軍は車いすを押して宮殿に進む。

"わたしも年老いたものだ 最近は涙もろくていかん"

僅か7歳で 周りを気遣い 青い顔で息を荒くしながら 微笑む王子に
ジャルジェ将軍は胸が締め付けられるのだ。

宮殿は急ごしらえとはいえ 何とか王一家が住まうくらいの場所は整えられていた。
「こんな所で…」
アントワネットの言葉にルイは
「わたしはこれで満足だよ。」
そう言って微笑んだ。

始めこそ、ボロボロであったが 後にラ・ファイエット候や 王妃に憧れを抱くミラボー氏の尽力により 
王室費として 年2500万リーブルの予算がみとめられることになる。
さらにベルサイユ サン・ジェルマン、サン・クルー、フォンテーヌブロー、
コンピエーニュ、ランブイエにある農地と森林からの収入も認められた。

これらの資金で、従僕やコック などの召使い総勢677名を揃えることが出来た。
宮廷の官職者たち約100名もテュイルリー宮殿内に居室が与えられ、
ベルタン嬢や髪結師のレオナールも伺候するようになった。

これらの事は この人類初の革命に危機感を抱く諸外国からの
過剰な干渉を避けるためにも重要なことであった。
決してこの革命が王制を破壊するものではないのだと 示さなければならなかったからだ。
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